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府の機構再編1年
問われる「府」そのものの存在意義
2005(平成17)年5月6日付掲載
 府の機構再編で中丹広域振興局がスタートして1年になる。 中丹地域では綾部と福知山、 舞鶴の3市にそれぞれ設置されていた 「地方振興局」 を中心とする府の基幹的地方機関が統合された。 組織統合の目的が合理化であるならば、 それまでに比べて住民サービスが低下するのは必然とも言える。 この間、 府はサービス低下を最小限に抑えるため可能な限りの努力をしてきた。 それは理解できるが、 仮に住民が (合理化されて) 不便を感じないとしたら、 それは 「府」 という組織が存在することの意味自体を見直す必然が生じているとも言えるのではないか。

 昨年5月まで府内は12ブロックに分けられて地方振興局や保健所、 土木事務所、 地域農業改良普及センターなどが設置されていた。 これらの機関は府の基幹的地方機関として、 各地域の市町村振興や防災対策、 保健や福祉、 環境対策、 土木や建築行政、 商工業や農林業振興など府政の全般にわたる広範な行政分野を担ってきた。 この12ブロックによる機構は、 昭和17年に当時の内務大臣訓令に基づいた地方事務所の全国一斉設置によるものが原形となっている。

 府が説明しているように、 市町村の数の変化や交通・情報通信手段の発達、 地方分権の進展といった社会情勢、 住民ニーズの多様化など、 60年余り前に比べて、 その変化の大きさはだれもが知るところだ。 それに加えて府は、 再編の狙いの一つとして 「今後の市町村への権限委譲が一層進み、 市町村合併など市町村の状況が大きく変わる中で、 府の役割を踏まえ、 住民の価値観やニーズの多様化、 地域の変化に迅速かつ的確に対応する」 ことを挙げている。

 いかにITが進歩しようと、 人間相手のサービスの大半は対人による 「マンパワー」が基本。 このため一般の企業や団体は組織存続のために巨大化を図って合併し、 合理化を進めるために採算性の低い地域や事業から撤退することがある。 いくら情報通信が発達しようとも、 地理的条件の距離を縮めることはできない。 道路整備が進んで交通網が発展しても、 出先がなくなり、 そこに詰める人間がいなくなれば当然、「マンパワー」 は低下する。

 山田啓二府知事は 「現地・現場主義」 をモットーとしている。 知事自身が府内の各地に出向くことも 「現地・現場主義」 かもしれない。 だが、 知事を支え 「府民」 という地域住民や市町村職員と接する府職員が 「現地・現場主義」 であることが本質ではないのか。

 10年ほど前、 中上林地区で行われた圃(ほ)場整備事業の完成式典で、 開式が遅れたことがあった。 理由は、 知事代理の府幹部職員の到着が遅れたためだ。 遅刻してきた幹部は 「入る谷を間違えまして」 と弁明したが、 それを耳にした地元住民の一人は 「一度も来たことがないからや」 と不快感をあらわにした。

 過日、 市の農林担当者と話をしていた際、 担当の職員は 「今は綾部を知る担当者が舞鶴 (中丹広域振興局) にいてくれるので、 場所を言えば現地で落ち合えるが…」 と言った。 それは、 昨年まで綾部の地方振興局にいた職員だから地理を知っているということであり、 異動で綾部を知らない職員が担当になれば市役所に一度集合してから現地に赴かなければならないことを意味している。

 人が移動するためには時間がかかる。 だから、 再編という合理化によって 「迅速という目に見えない時間のサービス」 は切り捨てられる。 それは、 昨年10月の台風23号の際にも如実に現れた。 「土木事務所を綾部に集約せず、 以前のように舞鶴にも置いてあったら…」 と口にした府職員もいた。

 今回の機構再編は、 まだ1年が経過しただけに過ぎず、 現状だけを見て是非を論じるのは早計かもしれない。 しかし再編理由の一つである 「府の役割を踏まえ、 地域の変化に対して迅速かつ的確に対応する」 ことが、 「現地・現場主義」 と同様に、 掛け声だけに終わったのでは再編の意味がないことになる。

  「人々は国民や市民であることを意識する場面はあるが、 都道府県民であると意識することは少ない」 と言われる。 国民でも府民でも市民でも、 それは問題ではない。 大切なのは、 住民がどのような暮らしを送れるかである。 流通の合理化で顕著になってきたのは 「問屋」 や 「卸」 の撤廃である。 もしも 「府」 という組織が住民にとってそんな存在だとするならやがて、 今の時代に存在する意義そのものを問われるのではないだろうか。