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時代の架け橋 登録文化財 綾部大橋の76年(5)
市制施行の前「綾部橋」を「綾部大橋」に

昭和4年の架設時  「綾部大橋」 か 「綾部橋」 か? 市民の間でも呼び名が異なる現実がある。 昭和4年6月に完成したばかりの橋の写真を見てみると、 街路灯も取り付けられた親柱には 「綾部橋」 となっているのが読み取れる。

 その一方で 「綾部橋」 ではなく、 「綾部大橋」 と記された、 かつて使用された親柱も現存している。 旧親柱が置かれているのは、 味方町の紫ケ丘公園内にある 「水の記憶の碑小公園」。

 ここにある旧親柱は元々、 昭和48年の改修まで橋のたもとに立っていた。 このことから一時期、 橋の名前が 「綾部大橋」 だったことがうかがえるが、 改修後に設けられた現在の親柱は完成時と同じ 「綾部橋」 の名に戻っている。

 こういった経過を踏まえると、 親柱は2回取り替えられたように思えるが、 実際は1回だけ。 昭和25年に綾部市が誕生する前に親柱の 「綾部橋」 の文字が 「綾部大橋」 に彫り直されるという過去があった。

  「綾部大橋」 の文字を刻んだのは、 河内屋石材の会長、 河内源三郎さん (83) =中ノ町3丁目。 復員後、 綾部の地で石材業を始めた河内さんが25歳のころ、 この仕事の依頼が寄せられた。 文字の揮毫(きごう)は綾部町の長岡誠町長だった。 水の記憶の碑小公園にある旧親柱

  「当時は車の通行台数が今のように多くはなかったが、 現地に建ったままの状態で石を彫る作業は大変だった」 と河内さんは振り返る。 河内さんによると、 親柱の 「綾部橋」 の文字を長岡町長が気に入らず、 自ら筆を取ったらしい。 「橋」 を「大橋」 にした理由は定かでない。

 現在の親柱が 「綾部橋」 になったのは、 昭和43年5月の 「丹波大橋」 の完成が関係している。 近くに 「大橋」 が2つ並んで存在することになり、 まぎらわしさを避けるため、 改修を機に 「綾部橋」 にしたようだ。
現在の親柱
 ところが丹波大橋東詰の国道27号沿いに設けられているバス停の名称は 「綾部大橋」。 そのためか、 「丹波大橋」 の名称を 「綾部大橋」 と勘違いする人も少なくない。

 府の台帳に記載されている橋の名は 「綾部大橋」。 味方町側の堤防に立てられている河川占用標示板にも工作物の名称として 「一般府道広野綾部線 綾部大橋」 と記されている。

  「綾部大橋」 「綾部橋」 ―。 いずれにしても多くの市民がこの橋に愛着を持っていることは間違いない。
   (細見仁史記者)