今春、 「綾部大橋」 が国の登録有形文化財に指定されるということは、 多くの市民にとって思わぬ出来事だった。
大畠町の矢野龍三さん (65) もその一人だが、 龍三さんにとって綾部大橋は特に感慨深いものがある。
というのも、 綾部大橋の架設工事を請け負ったのが祖父だったからだ。
味方町の紫水ケ丘公園の一角に整備された 「水の記憶の碑小公園」 にある綾部大橋の旧親柱には、
工事の 「請負人」 の氏名も刻まれている。 「京都 矢野彌次郎」。 この人こそ龍三さんの祖父で、
明治末から昭和10年代にかけて京都を拠点に国内各地で橋を中心に数々の土木工事を手掛けた。
船井郡園部町発行の 「広報そのべ」 で以前、 「橋梁(きょうりょう)の覇者・矢野組」
というタイトルで園部出身である矢野彌次郎さんのことが紹介された。 それによると…。
彌次郎さんは慶応2年 (1866) に保津村 (現亀岡市) で生まれ、 その後、
矢野治兵衛さんの養子となり、 現在の園部町に住む。 20代半ばのころから、
地元の同年代の仲間とともに 「十人組」 を組織し、 土木事業に乗り出した。
明治40年代に入り、 京都へ進出した彌次郎さんは 「矢野組」 を創設。 大正元年に京都市内の西塔橋、
2年に久世大橋、 6年に葵橋と出町橋などを完成させていく。 7年以降、 滋賀や三重、
長野、 愛知など京都府外でも、 橋梁の架設のほか河川改修や送電鉄塔の建設といった工事を次々と請け負った。
龍三さんの父は彌次郎さんの次男。 その父からかつて次のような話を聞いた。
「 (彌次郎さんの) 仕事の関係で日本国中に引っ越し、 小学校を13回も変わった」。
矢野組は昭和4年、 綾部大橋の工事を行う。 工期は112日間、 工費は13万円だった。
各地で土木工事に着手するのと併せて矢野組は急成長し、 昭和14年には株式会社になる。
龍三さんは彌次郎さんとの直接的な思い出はない。 なぜなら彌次郎さんが他界した昭和18年、
龍三さんはまだ3歳だったからだ。 それでも幼少のころから 「綾部大橋は、
おじいちゃんが架けた」 ということは耳にしていた。
龍三さんは言う。 「綾部大橋が文化財に指定された今年の春、 初孫が生まれ、
何か因縁深いものがあるように思える。 孫にも 『おじいちゃんのおじいちゃんが架けた』
綾部大橋のことを伝えていきたい」。
綾部市の公共下水道のマンホールのふたには、 綾部大橋もデザインされている。
龍三さんはそれを見るたびに祖父を偲(しの)ぶ。 (細見仁史記者)
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