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あやべ西国観音霊場巡り (7)
長福寺、楞厳寺、瑠璃寺

番外第二番 長福寺(栗町)

七月の「千日詣で」盛況

 案内板に従って府道から脇(わき)道に入るとすぐ、小さいけれどもお寺の風情が漂う建物がある。

 参道も山門も本堂もない。ゆるやかに反り四方をピンと跳ね上げた屋根の観音堂に、栗揚地区の公会堂が隣接して建っている。

 観音堂には、信心深い人が願いごとを託したのか、それとも大願成就のお礼に納めたのか、寺の名を彫った手作りの感じのする額と鰐(わに)口がかかっている。

 かつては尼寺で尼さんが住んでいたこともあったが、長年無住寺になったまま。檀家を持たないこの寺は、同じ栗町にある高台寺の弓削弘文住職が兼務している。

 毎年行われる七月十日の「千日詣(もう)で」は、一日で千日分の功徳をいただけるとあってか、多くの人がお参りをしてにぎわう。

 町内の老人会が維持管理をし、寺の前の広場で盆踊りをしたり、囲碁の会を開いたりして地区の人たちの交流の場としても利用されている。

 高台寺の総代でもある永井弘さんと老人会副会長の永井精一さんが、鍵(かぎ)を開けて等身大の観音様を見せて下さった。

 何度か焚(た)かれたお香の火で全身が黒くすすけている。「雑巾(ぞうきん)でふくのも気がひけて、そのままにしたるんです」と弘さん。

 「行き届かんことばかりで申し訳ない」と精一さんは言うが、長福寺というよりも平田の観音さんと呼ばれて地元の人に親しまれているこの観音様を護(まも)り管理していく大変さは、察して余りある。



第十四番 楞厳寺(舘町)

「鴉寺」「花の寺」で有名


 大隅重信から「鴉(からす)博士」の称号を贈られた画家・長井一禾(いっか)の書いた鴉の襖(ふすま)絵があることから、「丹波のカラス寺」の異名をとる。為広哲堂住職の説明を受けながら四季の鴉の襖絵を拝見した。

 両親のカラスが三羽のひなに餌(えさ)を運び、慈しんで育てる姿を描いた春の間。高野山の参道脇に並ぶ老杉と、様々なカラスの姿を描いた鴉百態の夏の間。

 湖畔で休息するカラスと広大な空間を飛ぶカラスで静と動の対照を表現した秋の間。鳩に三枝の礼あり、鴉に反哺の孝ありの故事に基づき、巣立ちした三羽ガラスが親に恩返しする場面の冬の間。

 黒一色のカラスは、目がほとんど判別できない。どうしてもカラスの目を描きたかった一禾は鷹の目を持ってきて、鴉という字を使いカラスを描き続けたという。一禾のカラスの目はどれも怖いほど鋭く光っていた。

 楞厳寺は、ハスの花でもよく知られている。

 泥の中から生まれてきても泥に汚れることなく清らかな花を咲かせる汚泥不染の徳。花と実が同時にでき、人も誕生と同時に尊い清らかな心を持っているという花果同時の徳。大賀博士が発見した二千年前のハスの種が芽を出したことで、ハスの種も人の心も永遠だとする種子不失の徳。

 これをハスの三徳として楞厳寺では、ハスを大切に育てている。

 ほかにも、人の背丈以上のツツジが花を咲かせる花のトンネル。白、赤、ピンクの咲き分けになっているツバキ。樹齢約五百年の菩提樹。一株から初代、二代、三代へとの移り変わりが分かる百日紅(さるすべり)の三古木。

 このほか同寺には、四国八十八カ所の砂を足元に埋めた新四国八十八カ所など見どころがたくさんある。



第十三番 瑠璃寺(大畠町)

学童疎開の歴史も刻む


 本堂前の庭に二抱えでは足りない太さの幹の大きな楠(くすのき)がスックと立ち、その横には学童疎開の碑がある。

 昭和二十年の三月から十月まで親元を離れ、この寺で過ごした教職員と児童たちが、全村挙げての物心両面の温かい援助と協力に対する感謝の気持ちと平和を祈念して建てたもの。

 その隣には、疎開から五十周年を記念して贈られた五葉の松が植えてある。その松に込められた思いは、戦争を体験していない記者には推し量ることのできないものだ。そんな思いに浸っていると、この寺を兼務している福知山市川北の頼光寺住職・立身一徳住職が来て、案内して下さった。

 本尊の十一面千手観音菩薩は千手千眼観音ともいい、千本の手の指先に目があり、このたくさんの目で迷える人を見つけて救ってくれるんだとか。

 話を聞いていると、頭の中に目のついた一万本の指の図が浮かび、少々気味が悪くなる。が、その本尊を見せてもらうことにした。

 恐れ入りながら踏み台に乗って、安置されている高い台に足をかける。灯(ひ)が届かず細かな指先までははっきり見えなかったが、小さいながらも稟(りん)とした美しいご本尊だった。

 この寺は、舞鶴市吉田の瑠璃寺、兵庫県氷上郡の瑠璃寺とともに昔から「丹波の三瑠璃寺」と並び称されている。境内の薬師堂に安置されている薬師像は他の二つの寺の薬師像と同じ楠から彫られ、根は舞鶴、中は大畠、末は氷上に祀(まつ)られていると伝えられている。

 しかし、その像は既に焼失。現在の像は鍛治屋町の豪農由良氏が火事見舞いとして寄贈したもので、「東向き薬師」としてもよく知られている。

 綾部藩主九鬼公の念仏寺でもあり、九鬼公の法要には山主が参列し九鬼公も休養によく訪れたとも伝えられている。


2000年(平成12年)2月18日付 掲載