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清水寺に今も息づく大槻重助

勤王僧・月照に仕えた高津出身の「忠僕重助」顕彰に住民有志が上洛
 国内だけに限らず世界各国からもたくさんの観光客が詰めかけ、 にぎわう京都・清水寺。

清水坂を上って境内に進み、 「音羽の滝」 へ通じる参道を歩いていると、 「忠僕茶屋」 と

書かれた暖簾(のれん)が掲げられた茶店が目に入る。 この時期には、 わらび餅(もち)や

「ところてん」 といったメニューもあり、 休憩がてら観光客らが気軽に立ち寄るこの店は元

々、 綾部出身の1人の男性が営業を始めた店だ。 名前は 「大槻重助(じゅうすけ)」。

幕末期に勤王僧・月照の下僕として幼少時から仕えた重助は、 月照亡きあとも生涯にわたって

月照の墓を守り続けた。 地元出身の重助を顕彰しようと活動を始めた高津町の住民たちがこの

ほど、 重助と縁が深い清水寺を訪れた。 一行に同行した時に撮影した写真を盛り込みながら、

同寺にある重助にまつわる遺跡を紹介しよう。

(このページの記事と写真は2004.7.21付弊紙で掲載したものの再掲載です)
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碑は隆盛の弟・西郷従道が揮毫   背面の一文は海江田信義がまとめる

重助が残した「忠僕茶屋」 今の店主は4代目・光さん

精進料理作りのエピソードも残る

大槻家に残る大槻重助(左)と妻・いさの肖像画


清水寺境内で今も営業されている「忠僕茶屋」


海江田信義らによって建立された「忠僕重助碑」


「忠僕重助碑」の背面には大槻重助の出生地として「高津」の文字が刻まれている


「忠僕茶屋」はかつて「三重の塔」近くの藤棚の所(手前左)にあった



大槻重助の墓石は「月照」「信海」「大西良慶」(右から)の横にある


清水寺境内にある大槻重助(右)と妻・いさの墓石
 ユネスコの世界遺産にも登録されている清水寺には、 国宝や国の重要文化財級の数々の建造物が建っており、 その一つに 「北総門」 がある。 かつては同寺塔頭(たっちゅう)の成就院の正門だったこの門をくぐると、 正面に成就院の第24世住職・月照と第25世住職・信海の歌碑と、 西郷隆盛の詩碑が並んで立っている。

 文化10年 (1813) に生まれた月照は14歳の時に成就院に弟子入りし、 天保6年 (1835) に住職の座に就いた。 その後、 弟の信海に住職の座を譲り、 自らは幕末期の尊王攘夷運動にかかわった。

 安政5年 (1858) の 「安政の大獄」 で幕府側からにらまれる存在となった月照は、 身を守るため京都を離れて薩摩藩へ。 苦労の末にたどり着いた薩摩藩で受け入れてもらえなかった月照は、 西郷隆盛と一緒に錦江湾で入水自殺を図り、 死去した。 享年45歳。 清水寺では毎年、 月照の命日の11月16日に 「落葉忌」 法要を営んでいる。

 その月照らの 「遺蹟(いせき)」 に向かって左側にあるのが、 大槻重助の顕彰碑。 重助が明治26年 (1893) に亡くなったあと、 同32年に建立された碑の正面には、 「忠僕重助碑」 と文字が刻まれている。 この碑文の揮毫(きごう)は西郷隆盛の弟で、 明治政府の海軍相や元帥、 元老も務めた西郷従道。

 碑の背面には、 「大槻重助丹波国何鹿郡綾部村字高津人」 (大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津の人なり) から始まる文が一面に入っている。 そこには、 「忠」 を持って月照のために尽くした重助の経歴や功績などが記されている。

 この文をまとめたのは、 明治維新後に政府重臣となり、 枢密顧問官も務めた海江田信義 (旧名・有村俊斉)。 薩摩藩出身の海江田は、 以前から親交のあった月照が 「安政の大獄」 の難を避けるために京都を出る際、 西郷隆盛らとともに無事に逃げ切れるように月照の護衛にもかかわった。

 こういった経緯もあって海江田は、 常に月照が連れ添っていた重助のことをよく知る人物の一人とも言える。 碑に記された内容の信ぴょう性は高く、 「大島町生まれ」 という説もある重助が 「高津生まれ」 であることは事実だと考えられる。

 清水寺境内で重助が茶屋を営み始めたのは、 月照入水事件後、 幕府側に捕らえられ、 京都で約半年間の獄中生活を送ったあと。 解放されてから一時期、 重助は古里の高津に帰ったが、 月照を慕う気持ちはぬぐい去れなかった。 京都に舞い戻った重助は妻をめとるとともに、 同寺境内にあった茶屋 「笹屋」 を買い取り、 店を営みながら月照の墓を守り続けた。

 重助は、 西郷隆盛らの援助を受けて茶屋を改装。 その後、 同寺から茶屋の営業権を保証され、 屋号は 「忠僕茶屋」 と改められた。 当初、 住居を兼ねた店は 「三重の塔」 横の藤棚の所にあったが、 20年ほど前に店だけが現在地へ移転した。 現在の店主は重助のひ孫に当たる大槻光さん (53)。 重助から数えて4代目となる。

 店の関係者によると、 重助に関するエピソードとして精進料理を作るのが得意だったことが伝えられている。 重助オリジナルのメニューの一つとして、 豆腐に熟した柿の実を添え、 塩を加えたものがある。

 この料理のことは、 明治10〜22年に京都で発行された西京新聞の元記者が同40年にまとめた本 「忠僕重助傳」 の中にも出てくる。 安政5年の逃走劇の時、 京都から九州に入った月照に対して重助が材料を調達してこの豆腐料理をふるまったところ、 心身共に疲れ切っていた月照を大そう喜ばせたようだ。

 清水寺には重助の墓も建立されている。 場所は 「清水の舞台」 の南に位置する 「子安の塔」 横の道を下った所にある墓地。 ここは一般の観光客が立ち寄らないような所で、 普段は門が閉じられている。

 墓地にはたくさんの墓石が並んでいるが、 ひときわ立派な墓石が3つある。 これらは、 歴代成就院住職だった月照と信海、 そして清水寺貫主だった大西良慶の墓。 その東側に重助と妻・いさの自然石を使った墓石が立つ。

 重助の戒名は、 「誠光院忠岳義道居士」。 重助は他界後も、 月照を仰ぎながらひっそりとたたずんでいるように見えた。