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第14回FMラジオ歴史ウオーク「足利氏と安国寺」「黒谷の和紙」
「景徳山安国寺について」(3)
綾部史談会会長  山崎巖
上杉清子仮名消息文

上杉清子仮名消息文
康永元年(1342)8月13日

安国寺文書

 安国寺には現在3幅5巻74通の安国寺文書といわれる中世文書が残っている。

 これらは重要であるので、綾部市史中巻資料篇に全文活字体で掲載されている。綾部市にとっても重要な文化財として指定され、単に安国寺の歴史を知る古文書であるばかりでなく、中央の歴史学者からも中世資料として高い評価を受け、屡々論文にも引用されている。年代的には最も古いもので文保元年(1317)から永祿9年(1566)まで、約150年間、激動の南北朝から応仁の乱を経て戦国時代の終わりまでに及んでいる。内容は多岐にわたり、安国寺境内図等の絵図等もあるが大部分は安国寺の所領に関する寺領の寄進状または安堵状等である。時代が降ると、寺領が漸次在地武士による押領に対する争論の文書で、将軍家から寺領を認定する御教書(将軍の命を受けて出す下達文書)やそれを受けて下部組織が命令を執行する施行状や遵行状が多い。これらの文書を通じて、中世の土地所有形態の変遷と在地武士の動静を知ることが出来る。安国寺文書は現在綾部市資料館に保管されている。紙数の都合で特別なものだけを紹介しておきたい(写真参照)。

(イ)上杉清子仮名消息文 国指定

 安国寺文書のなかに清子の自筆の書状が2通あるが、1通は清子が暦応2年(1339)1015日、尊氏が征夷大将軍に任ぜられた翌年、足利氏と古くから関係深い三河国額田郡日名屋敷を清子名の自筆の寄進状をそえて寄進しているものと、もうひとつは写真の消息文で安国寺文書のなかでも最も評価の高いものである。これは康永元年(1342)1223日に清子がなくなる4カ月前の8月13日、老の病床にある清子が京都からはるか故郷に思いをはせ、光福寺に土地を寄進することを実家上杉氏の嫡子である甥に当たる朝定にあて、依頼したものである。京都の藤原貴族の家に生まれ、公家の女性として育った清子の高い教養のある流麗な筆蹟と光福寺への信仰の深さに胸をうたれるのである。その大意は「もう私の命も(まつそ)わからない身であるので 生まれ育ったところである(光福寺)氏寺にしたく思っているので申し置くから心得ておいてほしい 夜久野郷でもまたそれ以外の何処かを光福寺へ寄進したく思うのでその土地の名と場所を承りたい このことはとの(殿=尊氏)へも知らせて置くから」といっている。この依頼を受けて甥朝定は清子が没したその年1223日遵行状を出して、家来の地頭備後八郎(源行朝)に夜久野郷の内今西村を光福寺へ寄進することを命じ、その命を受けて翌年3月11日、今度は源行家から光福寺座主へ打渡状を出し、上杉(朝定)殿の仰せによって今西村を光福寺へ寄進することを光福寺座主宛に出し、寄進の手続がとられている。

 (ロ)もう1つ文書を紹介すると

足利義詮御判御教書

 延文3年(1358)6月29

足利義詮御判御教書

 貞治4年(1365)7月16日の2通

 尊氏は信頼されていた後醍醐天皇に背く結果となり、また自分の片腕として協力してくれた同母弟直義を鎌倉にて殺すことになり、又自分の子(母は越前局)で弟直義の養子になっている直冬と戦わねばならないという運命の過酷さの中で戦に明け暮れて、延文3年(1358)4月30日、54歳の激動の人生を終わった。この御教書はその年6月29日、嫡子2代将軍義詮から父尊氏の遺骨を安国寺に分骨した時の文書である。これは御教書の形式をとりながら祐筆書きでなく義詮自筆のもので、父の分骨の重大さに自ら筆をとったものであろう。「前の将軍(尊氏公)の分骨を光福寺に納めるので不朽の勤行」を致すよう記している。もう1通は、尊氏の妻登子(赤橋)がその7年後貞治4年(1365)5月4日に逝去するが、その年7月16日にやはり義詮から御教書を出し、登子の遺骨を光福寺に分骨している。この時は義詮の自筆でなく祐筆書きである。「往年の由緒で光福寺へ分骨するので万代の勤行を致す」ことが記されている。これらの文書で尊氏、登子の光福寺への分骨は明らかである。母清子の分骨については文書こそないけれど、恐らく尊氏によって分骨されたものであろう。後述するように、今、安国寺の境内にはこの3人の遺骨がひっそりと苔むした3基の宝篋印塔に葬られている。足利氏の菩提寺は京都北区に尊氏が前述の夢窓疎石を開山として等持院(尊氏の戒名)を建て、歴代の足利将軍の廟所となっている。従って尊氏は正式には等持院に葬られたが、それ以外に将軍御教書を添えて光福寺へ分骨され、同じ日に摂津(現川西市)源氏ゆかりの寺である多田院にも分骨されている。また、別に高野山安養院にも分骨されている記録が残っている。(蔭涼軒日録)