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障害者の日
大切なのは本質を見失わないこと
2004(平成16)年12月10日掲載
 あやべ市民新聞は、 9月3日付の 「声のひろば」 欄で 「片手ハンドルは絶対にダメ」 という見出しを付けて、 車や自転車に乗り携帯電話をかけながら片手運転をすることの危険性を指摘し、 交通安全を訴える投稿を掲載した。 ところが、 その後、 片腕切断で障害2級の手帳を受けている男性が実名で本社に 「(投稿の趣旨に) 異論はないが」 としながらも、 障害を持つ人の立場からの憤りなどを記した文章を寄せてこられた。

 言葉や文字で思いや考えを伝える場合に重要なのは本質である。 表現によっては意図せぬ結果を生む。 そうした結果が生じないように最大限の配慮は不可欠だが、 一方では 「配慮の独り歩き」 が解決すべき問題そのものの本質を見失わせ、 形ばかりに捉(とら)われる危険性をはらむことになるため注意を払う必要がある。

 12月9日は、 30年前に国連が 「障害者の権利宣言」 を採択した日。 平成4年12月10日付の朝日新聞朝刊で 「週刊新潮12月17日号」 の広告欄に 「『 』 竹下を撫でて出なかった 『怪情報』 噴出」 と、 二重かぎカッコで空白になった異様な見出しが躍った。 そこで本紙は、 2日後の12月12日付の 「たんばじ」 欄で次のようなコラムを掲載した。

 朝日新聞が、 翌11日付朝刊で 「『群盲』 の文字 新聞社が削除」 という見出しとともに、 空白になった (した) 理由を 「同新聞社東京本社広告整理部長が、 8日に広告の原稿を受け取り、 空白の部分は 『群盲、 象を撫(な)でる』 のことわざからとった表現と思ったが、 目の不自由な人に対し、 差別的内容を含む比喩(ひゆ)と判断、 新潮側に変更を求め、 了解を得て削除した」 と報じたことを紹介し、 「発生していない指摘に対する異常な敏感さ」 による 「危険と感じるものの排除」 が本質的な人権問題の解決につながるのか、 と疑問を呈した。

 同社の判断はさておき、 諺(ことわざ)の中には、 体の不自由な部分を取り上げたものも少なくない。 目であれば 「盲蛇(めくらへび)におじず」、 耳であれば 「聾桟敷(つんぼさじき)」 と言うように。 これらの諺の生い立ちから言えば決して望ましい表現ではない。

 本紙には「女性のページ」の中に「ちょっとドライブ」 という欄があり、 かつて同欄では、 目的地までの交通手段を紹介するのに 「あし」 という表現を使っていた。 ところが、 ある日、 名前を名乗らない男性から 「足の不自由な人に対する配慮がない」 との意見が寄せられた。

 日常会話で交通手段を 「あし」 と言うことがあるが、 その際、 「あし」 という言葉を使う人に足の不自由な人に対する差別的意識があるだろうか。 操作が簡単なコンパクトカメラを 「バカチョンカメラ」 と言うのを耳にすることも少なくない。 誰だれでも使えるという意味で 「バカでもチョンでも」 ともいうのが基だが、 「バカ」 と並べて使った 「チョン」 は韓国・朝鮮人を見下した、 極めて悪質な差別的表現である。

 だが、 明らかに問題のある表現であっても、 普通の会話の中では問題にならない場合もある。 それは、 発言者と聞き手とがお互いに相手の見える状態で対面し、 やり取りをすることによって相手の意図を感じとることが出来るからだろう。

 しかし、 だからと言って、 問題のある言葉を無造作に使っても許されることにはならない。 社会や組織で弱い立場にある者は、 強い立場の者が発した言葉で傷ついたとしても、 抗議や反論をするのは難しい。 また、 人は生命保持という面からも被害意識には敏感だが、 その一方で加害意識には鈍感になりがちでもある。

 前述の 「あし」 は、編集会議の末、「ルート」 と変えた。 だが、 今回の 「片手ハンドル」 や 「片手運転」 に置き換えられる適切な言葉は考えられなかった。 また、 警察庁交通局が監修し日本の運転免許保持者全員に配布している 「交通の教則」 も 「自転車で合図する場合のほかは片手運転をしてはいけない」 と明記している。

 言葉や文字で表現する場合、 その内容が相手にどのように伝わるか、 意図することが正確に理解されるかに多くの注意と配慮をすることは必要だ。 しかし、 すべてにおいて研ぎ澄ましたような緊張感を持って対処することなど不可能に近く、 そのことだけに配慮と注意が注がれることで本質を見失う結果になる危険性もある。 「揚げ足を取る」 ことだけが目的であるならともかく、 大切なのは本質である。 人権を尊重する意識は絶対不可欠だが、 「配慮のための配慮」 は、 単に言葉の文化を脅かすだけにとどまらない。