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時代の架け橋 登録文化財 綾部大橋の76年(3)
昭和の時代を共に歩んだ“綾部橋”

 今は 「綾部大橋」 の名で市民に親しまれているが、 味方町の西村勝美さん(84)にとっては「綾部橋」 の方が馴染(なじ)み深い。 現在の橋が建設されたのは西村さんが小学生のころ。 当時低学年だった西村さんは、 現在地より6〜7メートル下流に架かっていた木造の綾部橋を通って綾部尋常高等小学校へ通学していた。 途中、 橋の上で足を止めては新しい鋼鉄製の橋が造られていく過程を見守り続けた。

  「木造橋よりもうんと高く、 見上げながら通学した。 『すごい橋ができよるな』 と子ども心ながらに驚いた」。 橋脚の建設では、 潜水服を着た人たちの姿が 「火星人のようで異様な感じにもとれた」 と、 西村さんに強烈な印象を与えた。

 橋はどんどん形を変え、 特徴的なボーストリング・トラスの形も姿を見せる。 現在の橋は青色だが、 西村さんの記憶によると完成当時は茶色。 青色になったのはずっとあとだという。 西村さんにとって「綾部橋」はかけがえのない存在になっている

 こうして昭和4年6月8日、 橋が完成。 「明日からはこの橋を渡って学校へ行ける」 と喜んだ西村さんは、 味方町から並松町へ走って橋を渡った。 まだコンクリートが乾ききっていなかった路面には、 西村さんの足跡も刻み込まれた。

 それからというもの、 西村さんら周辺に住む子どもたちにとって綾部橋は、 夏になると橋上から数メートル下の由良川に飛び込んだり、 橋脚と橋脚の間を潜って泳いだりする絶好の遊び場にもなった。

 西村さんは毎日、 綾部橋を通って小学校と福知山商業学校に通学。 卒業後は大蔵省に勤めるが、 戦争が始まると憲兵として中国へ。 終戦後の昭和21年に帰国した際、 「列車で野田町辺りまで来ると、 家がなくなっているのではと恐ろしくなったが、 チラッと見えた綾部橋が健在だったので、 思い切って対岸の自宅を確認した。 無事だと分かると思わず涙が出た」 と感慨深げに語る。

 戦後、 綾部にも甚大な被害をもたらした昭和28年の台風13号の大水害でびくともしなかった綾部橋は、 丹波大橋などが建設されるまで市街地と国道27号を結ぶ橋として重要な役割を果たす。 「綾部橋は昭和の時代を立派に生き抜いた」。 西村さんにとってこの橋は、 人生を共に歩んだかけがえのない存在だ。 (岡田圭司記者)