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最後の代官  忠左衛門日記
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最後の代官(1)

 口上林などで教師として活躍した岩本忠焉(ただお) (1857〜1918) の父忠左衛門 (1824〜1891) は、 口上林地区十倉の旗本谷領で江戸時代最後の代官を務めた人物である。 里町の市資料館は30日から11月28日までの約1カ月間、 忠左衛門が書き残した日記などの古文書を中心に 「忠左衛門代官日記」 と題した第12回特別展示を行う。

 忠左衛門は十倉領代官・道家助六郎の次男として十倉志茂町に生まれ天保14年 (1843)、 谷家の有力な家臣だった岩本家へ養子として入った。 その後、 実父助六郎の後を継いで安政4年 (1857) に代官となるが、 明治維新後に帰農。 6年には十倉中町にあった小学校の分校の管理人となり、 明治24年に62歳でこの世を去った。

 幕末から明治維新にかけての激動の時代を生き抜いた忠左衛門は、 代官になる少し前の安政2年5月から日記を書き残している。

 日記には、 ペリー来航の際に急きょ江戸へ行ったことや、 戊辰戦争後の様子など、 当時の社会の動きやその影響までもが克明に記され、 地方に住む代官の目から見た明治維新前後の世相を知ることができる。

 市資料館に、 忠左衛門日記など十倉領の歴代代官らが残した古文書1千点以上が、 東京に住む忠左衛門の子孫から寄贈された。 特別展示では、 この岩本家文書に焦点を当て、 忠左衛門の日記を中心にしつつ江戸前期からのあらましや忠左衛門の3男・忠焉のことも紹介する。

 過去の市資料館の特別展示で古文書が主役になったことはなく、 今回が初めての試み。 あやべ市民新聞ではこの特別展示に先がけ、 岩本家文書や関連資料から明治維新前後の口上林周辺の様子や忠左衛門の奮闘ぶりを掲載する。


最後の代官(2)

 代官・岩本忠左衛門が残した日記の中に 「徳川氏日誌 他雑書」 と記したものがある。 これは江戸から国元の忠左衛門に送られた数々の書簡類で、「安政の大獄」(1859)や「桜田門外の変」(1860)、「坂下門外の変」 (1862) など江戸末期の有名な事件についての伝聞記録もあるが、 その中には次のような苦労話も残されている。

 江戸にいた十倉領の谷家旗本・谷衛久は家督相続して間もない文久3年(1863)に 「講武所砲術方」と称する、 いわゆる鉄砲隊に命ぜられ、 各地の戦闘に加わっていた。

 鉄砲隊である以上、 ある程度の鉄砲を確保して緊急時に備えねばならないが、 わずか2千石の旗本にはそれだけの財力がなかった。

 衛久は、 家来のために準備していた具足を売り払って鉄砲を購入する費用に充てるよう家来に命令し、 業者に見積もらせた。 ところが、 そのすべてを売ってもわずか20両にしかならず、 この金額では新品の鉄砲を1丁しか買うことが出来なかった。

 そのため衛久は、 本家となる山家藩から鉄砲5丁を1丁当たり4両2分の格安価格で買って家来の稽古けいこにあてていた。 ところがこの鉄砲は傷物だったため、 実戦では使い物にならなかったという。

 そんな衛久だが、 水戸藩の尊攘派が筑波山で挙兵した 「天狗党の乱」 (1864) で幕府軍の一員として出陣。 衛久の軍が活躍する様子を伝える戦場からの書状が、 江戸屋敷を通じて忠左衛門に届いている。

  「常陸国 (今の茨城県) 御出陣先より来」 で始まるのがその手紙で、 刀や槍やり、 大砲が入り乱れる戦闘の模様が書き記されている。


最後の代官(3)

 明治元年(1868)の正月、 岩本忠左衛門は庄屋たちと年始のあいさつを交わすなど平凡な正月を迎えていた。 しかし、 1月3日に旧幕府軍と新政府軍による 「戊辰戦争」 が勃発ぼっぱつ。 情報伝達の手段がなく数日後にそのことを知った忠左衛門の生活は一変、 戦後処理に大慌てすることになる。

 忠左衛門が戊辰戦争を知ったのは開戦から6日後の1月9日。 京都にいた家来から、 7日の鳥羽・伏見の戦いで谷衛久がいる幕府軍が敗れ、 勝利した官軍が丹波地方へも制圧にやって来るかもしれないと聞かされた。

 10日には衛久の家臣神田省三が鳥羽・伏見の戦いで負傷し、 家来が神田を釣台に乗せて帰ろうと苦労していることを知り、 忠左衛門は11日に家来3人を派遣。 神田を十倉へ連れ帰った。

 しかし、 旧幕府軍の神田をかくまっていることを官軍に知られてはならないと、 忠左衛門は家来の家に神田を預けるが、 神田は14日に死亡。 15日に十倉志茂町の如是寺の裏山に埋葬した。

 17日には、 福知山に宿泊中の官軍の所へ周辺の代官たちがあいさつに行っていると聞かされた忠左衛門は本家の山家藩と相談して従来の制札は降ろし、 官軍の言う通りにすることを決める。

 一方、 衛久は大阪から和歌山、 三重へ渡り、 船で江戸に帰る。 忠左衛門が衛久の無事を知ったのは鳥羽・伏見の戦いからおよそ1カ月後だった。

 忠左衛門はその後、 延べ1カ月間にわたって京都に滞在。 衛久を京都へ呼び寄せ、 つてを頼って知り合った新政府の権力者・有栖川宮家に再三の贈り物をし、 ようやく5月1日、 「本領安堵あんど」 の朱印状を得たのだった。


最後の代官(4)

 岩本忠左衛門の活躍で 「本領安堵」 を得るなど明治維新を無事に乗り切った山家藩旗本の谷衛久は、 明治2年 (1869) の版籍奉還に伴い新政府から東京へ来るよう命じられ、 陸軍に採用される。 翌年には衛久の家臣団も解体され、 十倉村にいた家臣たちは相次いで村を離れた。 忠左衛門は、 その家臣たちが離村後にどのような生活を送ったかを 「諸記録」 として日記に残している。

 それによると、 小沢鉤太郎の一家は明治3年に父の東三が生まれた大和 (奈良県) へ帰り、 警察官に転身。 道家波右衛門は東京で茶店を開き、 道家辰之輔は本家 (旧山家藩) へ復籍したあと兵隊に編入した。 このほかにも東京で商売を営んだ者もいるという。

 代官だった忠左衛門はというと、 明治3年12月から一村人として引き続き十倉村に住み、 6年からは十倉中町にあった何鹿郡第12区小学校の分校の管理人となり、 明治24年の10月26日にこの世を去った。

 忠左衛門の日記は明治22年まで続くが、 代官として明治維新前後の激動の時代を乗り切ったころとは違い、 日常生活のことや息子・忠焉の活躍ぶりなど、 普通の出来事が綴つづられている。

 市資料館は忠左衛門という人物像を、 「ごく普通の代官だったのかもしれないが、 戊辰戦争後の処理をうまく乗り切るなど、 危機管理能力にすぐれた人物だったのかもしれない」 と描いている。

 忠左衛門の日記など古文書を主役にした第12回 「特別展示」 がいよいよ30日から、 里町の同資料館でスタートする。 開館時間は午前9時〜午後5時。 入場料は100円 (中学生以下無料)。
   (岡田圭司記者)


最後の代官(5)

 忠左衛門が代官を務めた江戸時代末期は全国的に財政がひっ迫し、 各地の旗本たちはその状況を改善するために領内だけで通用する紙幣 「旗本札(はたもとふだ)」 を発行していた。

 旗本札は今でいう国債や市債のようなもので、 一般に 「藩札(はんさつ)」 とも呼ばれる。 十倉谷領でも十倉中町にあった陣屋内に 「札場」 が設けられて旗本札 (通称・十倉札) が発行され、 忠左衛門がレートの上げ下げを決めていた。

 市資料館は今回の特別展示に伴い、 京都市在住の井関誠さんから十倉札の提供を受けている。 井関さんは日本古札協会の理事で、 十倉札だけでなく九藩や山家藩、 藤懸藩など数多くの藩札も所有している。

 市資料館が提供を受けた十倉札は嘉永6年 (1853) に発行されたもので、 大きさは縦13・5センチ、 横3・5センチ。 本に挟むしおりほどの大きさで、 当時はこのサイズが一般的だったという。

 和紙で出来ているため使用頻度が高いと通常なら擦すり切れてしまうが、 額面の 「銀貮分」 は高額だったことから人の手に渡る回数が少なく、 比較的きれいな状態で残ったと考えられている。

 市資料館によると、 この十倉札で面白いのは裏面にある検印。 慶応2年 (1866) に押されたこの検印は、 有効期限が延長されたという意味を持つ。 当時、 藩札の有効期限は15年前後だったことから、 藩札が明治時代初期まで流通し、 新政府がある程度の補償をしたと考えられる。

 ちなみに、 忠左衛門が安政3年 (1856) に書いた日記にも、 この十倉札についての記述があるが、 この年に発行された旗本札は井関さんですら持っていないという。
  (岡田圭司記者)


最後の代官(6)

 10月30日から里町の市資料館で特別展示が始まったが、 展示会場では取り上げられていない数々の話がある。

 忠左衛門の安政3年(1856) の日記によると、 十倉村で賭博(とばく)が流行して多くの役人たちが処罰されたという。

 同年1月24日、 大庄屋見習の渡辺傳之助を始め村民たちの間で賭博が行われていると聞いた陣屋側が調査を実施。 2月下旬には十倉村全体に広がっていることが発覚した。

 渡辺は住民たちの監視役であるにもかかわらず賭博の席にいながら注意もしなかったとして、 同じく監視の立場にあった足軽の渡辺茂平と共に退役させられてしまう。

 十倉村の中でも特に賭博が大流行したのは下村 (今の十倉志茂町) で、 賭博をしていなかったのはわずか3〜4軒だったという。 賭博事件はこれで終わらず、 12月には十倉村の住民が賭博のため綾部城下の町屋で逮捕される事件も起きた。

 一方、 慶応3年 (1867) の日記には十倉領から派遣され江戸屋敷で働いていた農民たちの実態に関する記述がある。

 このころ、 江戸屋敷での仕事は人気がなく、 村からの手当を増やしてまで人手を確保していた。

 十倉では、 出稼ぎに出ている若者や年貢滞納者の中から抽選で選ぼうとしたが、 それを拒否した対象者が処罰される騒ぎが起きるほどだった。

 そんな中、 同年1月に、 1年前に江戸勤めを命ぜられた5人が帰ってきた。 表向きは、 江戸屋敷の経費節減のために解雇されたとなっているが、 一度に5人も帰村するのは異例のこと。

 実は、 そのうちの2人は自ら望んで帰村したのだが、 残る3人は 「強情」 「仕事中の態度が悪い」 「賭博をする」 といった理由で強制的に返されたという。 人手不足の中、 無理やりに江戸へ派遣した結果の出来事だった。 (岡田圭司記者)


最後の代官(7)

 2千石の十倉谷領の財政は、 江戸時代末期にはかなり厳しくなった。 別表からも分かるように天保10年 (1839) は1千両以上の黒字であったのが、 17年後の安政3年 (1856) には6千両近い赤字に転落している。 借金6千両は当時の十倉領の年間収入の約10倍に当たり、 毎年の利息分だけでも年間収入に匹敵した。

 安政3年は忠左衛門が代官の見習をしていたころで、 当時の代官・道家源之進が地元の総代らを引き連れて江戸屋敷へ行き、 厳しい財政再建案を打ち出した。 これが 「御改法御仕法帳」 として岩本家文書の中に残されている。

 これほどまでに財政が厳しかった十倉谷領の代官に、 忠左衛門が正式に就任するのは安政4年の8月。 その直前の4月には前年の借金6千両に加え江戸から臨時金の要請があり、 疑問を持った総代たちが忠左衛門に江戸へ行って調べてくるよう依頼する。

 忠左衛門は仕方なく江戸へ向かい、 十倉谷領の厳しい財政状況を藩主に説明して倹約を談判するが、 その願いは聞き入れられなかった。 これに怒った忠左衛門は退役を申し出るのだが、 この時は受理されなかった。

 8月、 忠左衛門は代官に就任。 12月には藩主交代の件で江戸から呼び出しがかかるが、 忠左衛門は多忙を理由に 「来春まで行けない」 と江戸行きを断る。

 普通なら藩主と代官という関係上、 藩主からの依頼を断るなど出来ないように思えるが、 一度は退役を決意した忠左衛門は違った。

 もしもあの時、 忠左衛門の退役が受理されていれば、 その後の十倉領の運命は大きく変わっていたかもしれない。
   (岡田圭司記者)


最後の代官(8)

 幕末、 幕府は軍制改革を推し進めて幕府軍の近代化を図るが、 歩兵となる農兵が不足していたため、 各旗本に石高に応じて領内から一定の人員を出すよう命じた。 農兵には兵服が貸与され、 脇差をさすことも出来たという。

 2千石の十倉谷領も同様に6人の農兵を確保するよう求められ、 3人は領内から派遣したのだが、 あとの3人分は軍に直接雇用してもらえるよう金を納めた。

 領内の3人はどうやって選出したのか分かっていないが、 本人が志願したとは考えにくい。

 そんな中、 開国を進める幕府に抵抗して鎖国を主張する尊攘派の長州藩に打撃を加えるため幕府は、 慶応2年 (1866) の第2次長州征伐で諸藩に出兵を命じ、 農兵たちが早速、 長州包囲陣に動員された。

 この時に十倉谷領から派遣されていた谷衛久軍の歩兵の繁蔵に幕府の陸軍方から発行された保証書が、 里町の市資料館に展示されている。

 繁蔵は十倉領内の金河内村 (現在の金河内町) にいた人物で、 保証書は同町の志賀和義さんが所有していた。

  「長州征伐で万一、 繁蔵が討ち死にした場合には、 故郷にいる家族の面倒をみてあげるから心配せずに戦ってほしい」 という内容のもので、 同年6月の総攻撃に当たって発行されている。

 しかし、 幕府は長州藩領へ攻め込むこともできず、 長州征伐は失敗に終わる。 この情報は7月には丹波へも伝わっており、 残された繁蔵たちの家族がどのような思いでこの状況を受け止めたのかは定かでない。 (岡田圭司記者)


最後の代官(9)

 明治元年 (1868) 1月7日の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に付いて敗れた小浜藩士や会津藩士たちは、 綾部を通過して福井県へ逃れた。 途中、 落武者たちは東山町にあった旅館 「若松屋」 に宿泊するのだが、 この時の様子を同旅館の主人の菅生(すごう)という人物が克明に書き残している。

 鳥羽・伏見の戦いのあと落武者たちが山家へやって来ると聞いた住民たちは、 乱暴な落武者に何かされるのではないかと警戒し、 慌てて由良川の渡し舟を止めたり、 武器を持って集まったりして対策を練ったが、 翌朝には渡し舟を再開する。

 その後、 小浜藩の武士・竹下権十郎が本陣よりも先に山家へ着いて、 若松屋に同藩の殿様を泊めてもらえるよう依頼。 菅生らは村の有力者たちと相談し、 藩士たちを泊めることを決めた。

 竹下は若松屋の門に 「若狭本陣」 と書いた紙を張ってもらうように頼むのだが、 この時、 菅生はあまりの怖さに 「手が震えて書きにくかった」 と、 その時のことを記している。

 この日は小浜藩の武士らが若松屋に泊まり、 軍服姿で銃剣を持った会津藩の武士たちは若松屋の前に宿を取った。 その晩、 宿泊した武士の中の一人は槍(やり)を枕(まくら)元に立てかけ、 足音を聞くとすぐに目を開けて大声を出すなど興奮した様子だったという。

 結局、 小浜藩の殿様は山家へ来る途中に宿泊したため若松屋には泊まらず、 昼食だけを若松屋で取った。 菅生がその費用を請求したところ、後日、小浜藩からの使者が宿泊費を届けにやって来たとの記述もある。

 また、 この騒動で藤懸藩の上林城近辺では、 落武者たちに乱暴されないよう女や子どもが逃げる準備をしていたそうだ。 (岡田圭司記者)


最後の代官(10)

 戊辰戦争 (1868) のあと、 領土存続のために忠左衛門が、 つてを頼って知り合った新政府の権力者に贈り物をするなどして 「本領安堵(ほんりょうあんど)」 を得たことは既に紹介したが、 忠左衛門はこの権力者たちとつながりを持つために様々な手段を用いていた。

 まずは園部藩領だった西之保 (現在の西坂町) の役人・源右衛門。 園部藩は新政府側で京都市内の警備を任されていたこともあり、 忠左衛門は何度か源右衛門と会って新政府に関する情報を入手していた。

 また、 十倉谷領内の里村 (現在の里町) にいた作助という人物は、 理由は分かっていないが新政府最高機関の総裁だった有栖川宮家に出入りを許されていた。 そのため作助は明治元年3月5日、 忠左衛門の代理として有栖川宮家の家来や、 同じく新政府軍の西園寺家の家来あてに領土存続の嘆願書を提出している。

 その甲斐(かい)あってか同月下旬に有栖川宮が大坂に出向く際には、 作助を含め4人をお供として至急、 京都へよこすよう宮侍から十倉陣屋に依頼があるなど、 良好な関係が出来上がっていたようだ。

 このほか、 かつては 「禅定院」 と呼ばれていた十倉中町の観音堂の本山は京都の仁和寺だったのだが、 同寺の門跡 (皇室の流れをくむ住職) だった純仁は復職して名前を嘉彰 (のちの小松宮彰仁親王) にし、 鳥羽・伏見の戦いでは軍事総裁として新政府軍の指揮を執る。

 そのため、 鳥羽・伏見の戦いが始まった日には同寺から丹波国の末寺10カ寺に万一の場合は仁和寺を頼るよう通達があったという。 これも、 忠左衛門が新政府とつながる有力なルートだったようだ。

 このように、 あらゆる手段を使って忠左衛門が奔走したことで、 5月1日には谷衛久が園部藩主を訪問。 8日には有栖川宮へのお目見えも許されるなどし、 無事に本領安堵を得ることになる。
   (岡田圭司記者)


最後の代官(11)

 岩本家文書には、 武士たちが礼儀作法などの一般教養を身に付けるために読んだ書物が数多く残されている。 その中の一つには、 江戸にいた砲術家が忠左衛門に贈った、 鉄砲の使い方などを記した秘伝の文書もある。

 当時、 幕府が主流にしていた砲術は 「荻野流」 と呼ばれるもので、 代官になる前に江戸屋敷に勤務していた忠左衛門に対して、 荻野流の7代目継承者を名乗る桜井貞三から、 この砲術に関する書物が伝授された。

 1冊は嘉永4年 (1851) の 「鉄炮名所書」、 もう1冊は翌年に贈られた荻野流砲術の秘伝とされる 「百ケ條」 で、 この2冊には忠左衛門が江戸で使っていたとされる名前 「岩本湊」 の署名もある。

 しかし、 「百ケ條」 は1500年代に種子島に鉄砲が伝来した時のことから始まり、 旧式の火縄銃を使った砲術や戦法に関する記述ばかり。 「鉄炮名所書」 も火縄銃の部品の名称などが紹介されており、 新式の銃が使われていた江戸時代末期には荻野流砲術は時代遅れだったようだ。

 幕府は嘉永年間の終わりごろに長崎の兵学者・高島秋帆が編み出した 「高島流砲術」 を採用。 文久3年 (1863) に 「講武所砲術方 (鉄砲隊)」 に任命された旗本の谷衛久も高島からこの砲術を教わった。

 ちなみに、 砲術を学んだ忠左衛門は、 アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが嘉永6年に黒船に乗って浦賀に来航した際、 殿様と一緒に浦賀の近くにあった浜御殿の護衛に当たった。 おそらくこの時、 忠左衛門は、 太平の夢を長い間むさぼり続けた江戸幕府を根底から揺さぶった 「黒船」 を、 その目で見たのであろう。
   (岡田圭司記者)


最後の代官(12)

 江戸時代最後の代官として明治維新前後の激動の時代を生き抜いた岩本忠左衛門はいったい、 どのような人物だったのだろうか。

 忠左衛門の日記には、 領内や世間の動きについて数々の記述があるものの、 自分自身の人となりについては触れられていない。 今のところ顔写真も見つかっておらず、 忠左衛門の人物像は想像するしかない。 忠左衛門日記から読み取れる彼の人物像を探った。

 まず、 忠左衛門はどんな顔だったのか。 忠焉ら子弟の顔写真から想像すると、 忠左衛門は面長で精悍(せいかん)な顔つきだったと考えられる。

 忠左衛門は家督を忠焉に譲ったあとも日記を残しているが、 その内容は現役時代とは激変し、 息子の活躍ぶりを喜ぶ内容が多いため、 ごく普通の人だったように見えるが、 実はそうではない。

 兄2人を早くに亡くし、 十倉谷領代官の後継ぎとして育てられた忠左衛門は、 山家藩の藩校で学び、 侍(さむらい)としての教養を身に付けた。 20代の江戸勤めのころには黒船も見ており、 開国が進む日本の未来をすでに予測していたのかもしれない。

 その後、 忠左衛門は安政4年 (1857) に代官となるが、 借金だらけの厳しい財政状況でのスタート。 殿様と地元の領民との間に入り、 まとめ役としての力も発揮した。

 そして迎えた明治維新では、 常に緊張を強いられるような状況下で冷静に事態を捉(とら)え、 作助に公家方の情報を探らせるなど裏の一面も見せながら、 的確な判断で危機を乗り越える危機管理能力にも優れていたようだ。

 このように、 幕末から明治初期にかけての大きな時代の変化が忠左衛門の人格を形成し、 十倉谷領を救ったのだろう。 (岡田圭司記者)


最後の代官(13)

 明治維新という激動の時代を生き抜いた岩本忠左衛門は家督を息子の忠焉に譲ったあと、 名を 「十千(そせん)」 と改め、 地元の小学校の分校で世話人を務めながら平凡な日常を送った。 その間、 息子の結婚や孫の誕生など幸せなひとときを過ごした忠左衛門が最期を迎えるのは明治24年10月26日。 忠焉の日記から、 父忠左衛門の最期の様子を詳しく知ることができる。

 忠左衛門は死を迎える1週間ほど前から病状が悪化し、 発熱が続いていた。 25日夜には時々、 うなされるようになり、 翌26日午前3時ごろには医師がやって来て忠左衛門の頭部を冷やすなどの処置をした。

 昼ごろ、 忠焉らは父親が自力で立てなくなったのを知り、 親族など忠左衛門と懇意にしていた人たち十数人を自宅へ呼んだ。 駆けつけた親族らに忠左衛門は、 これまで世話になったお礼と今後も残された家族たちを見守ってもらえるよう頼んだという。

 午後2時ごろ、 この年の夏に忠左衛門が詠んだ辞世の句が披露されたあと、 同4時に忠左衛門は息を引き取った。 忠焉はその時の心境を 「ああ、 悲しいかな」 と書き記している。

 忠左衛門が残した辞世の句は次のようなものだった。 「野に山に たおれんとのみ 思いしに 畳の上で 死するうれしさ」。 武士として生き、 戦場で死ぬかもしれないと考えていたが、 長生きして畳の上で死ねることに感謝をして詠んだものだった。

 こうして、 十倉領最後の代官だった忠左衛門は67歳で生涯を終えた。 忠左衛門の墓は今も、 十倉志茂町の如是寺の裏山に残されている。
   (岡田圭司記者)
     =おわり=


最後の代官(番外)

  「忠左衛門代官日記」 をテーマとした市資料館の第12回特別展示が、 30日から里町の市資料館で始まった。 本紙でも 「最後の代官―忠左衛門日記」と題した連載(10月20日付から) をしており、 特別展示には初日から多くの市民らが訪れた。

 市資料館は、 口上林十倉の旗本領の代官だった岩本家から、 同家にかかわる文書の寄贈を受けた。 このことから、 市内の郷土史家らのボランティア協力を得て文書の整理や精読作業をし、 「岩本家文書から見た明治維新」 の副題で今回の特別展示を開くことにした。

 会場には、 畳1畳分ほどの絵図や古文書など約100点が並べられ、 忠左衛門を中心に忠左衛門より前の時代から後の時代を 「十倉谷領のあらまし」 と 「最後の代官と激動の世紀」、 「忠焉先生の話」 の3部構成で紹介されている。

 この特別展示は28日までで開館時間は午前9時〜午後5時。 会期中の休館はない。 高校生以上は入場料100円が必要。 問い合わせなどは同資料館(43・1366)へ。


最後の代官(番外2)

 市資料館が特別展示で取り上げている十倉谷領最後の代官・岩本忠左衛門 (1824〜1891) の子孫が8日に来綾し、 里町の同資料館などを訪れて先祖の素顔にふれた。

 来綾したのは、 忠左衛門のひ孫に当たる岩本義夫さん (72) =東京都=と、 義夫さんの長女の智子さん (39)、 次女信子さん (36) の3人。

 義夫さんは、 岩本家の長男で大阪府寝屋川市にいた兄の忠夫さん (故人) が所有していた古文書約1千点を、 岩本家を代表して平成12年に市資料館へ寄贈した。

  「子どものころは自分の先祖が代官だとは知らなかった」 という義夫さんだが、 食糧難の時には食糧を確保するため父英夫さん (故人) に連れられて所有地のあった口上林を訪れたこともある。

 岩本家の墓地は今も十倉志茂町の如是寺にあり、 智子さんや信子さんが子どものころには毎年夏に綾部を訪れていた。 最近は回数が減ったものの義夫さんらは3年に1度は墓参りに来ている。

 3人は市資料館の近澤豊明館長の案内で展示会場を見学し、 当時の十倉谷領の様子や忠左衛門の活躍ぶり、 上林地域で教師をしていた忠左衛門の3男・忠焉 (1857〜1918) のことなどについて説明を受けた。

 智子さんや信子さんは見学後、 「祖母から先祖が代官だったことを聞かされ、 テレビで見るような代官をイメージしていたが、 実際は苦労が多かったことも分かり、 親しみが持てた」 と話し、 義夫さんは 「岩本家がこういう家柄だったのだと、 しみじみ分かった」 と、 先祖の素顔について感想を述べていた。