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第14回FMラジオ歴史ウオーク「足利氏と安国寺」「黒谷の和紙」
本で出合ってきた黒谷和紙(上)
郷土資料研究家  山口正世司
「丹波民芸」の創刊号など

「丹波民芸」の創刊号など

 『丹波民芸』創刊号は、福知山市内記3丁目、丹波民芸協会から昭和14年9月に発行されていて、目次に用紙・丹波東八田と記されている通り、表紙も内の紙もすべて黒谷和紙で作った珍しい本。

 そこに私を黒谷に引き込んでいった寿岳文章という人の短い祝辞があった。

 「……慶賀の至りです。ことに立杭と云い丹波布と云い丹波紙と云い、我々民芸運動に従う者にはなつかしいものばかりです(中略)東八田の和紙と因縁多き小生、もとより応分の外護者に喜んでなりましょう」というもの。その他、民芸運動の創始者、柳宗悦や『月刊民芸』編集長の式場隆三郎らの好意あふれる祝辞があり、なぜこれ程に期待が寄せられるのか、それを解く糸口が黒谷の和紙との因縁多きと書かれる内容にありそうで、丹波民芸が出版された頃の民芸推進誌『工芸』や『月刊民芸』を古本屋でさがしはじめた。

 ようやく数冊を手に入れたが、これもすべて和紙であるだけではなく、表紙の厚い和紙には色漆で絵が描かれたり、工芸という文字が織り出されたり染め出された布であったりする、それ自体を工芸品として作る本である。

 そして、92号(昭和1310月刊)の目次には、用紙 丹波東八田と出ていた。94号(昭和14年3月刊)にも出ている。黒谷の和紙は『丹波民芸』より1年も前に、日本で最も注目されている『工芸』に登場していたのだ。

 このよろこびを伝えようと、丹波民芸に黒谷の和紙について書かれている水口勇さんの名をたよりに訪ねると、なんと娘さんの手元にも私が持参したのと同じ号の『工芸』が丁寧に遺されていた。その上に、私がまったく知らなかった和紙の専門誌『和紙研究』が第1号から第8号まで遺されていて、その第3号には、表紙 丹波何鹿郡東八田村黒谷産 本文用紙 同上 と今までになく黒谷産とまで書かれているのであった。

 このように教えられた『和紙研究』第1号から第17号まで入手でき、因縁に結びつきそうな寿岳文章「両丹紙漉村紀行抄」を第11号に見つけて読む。この11号は昭和18年6月の発行であるが、この紀行の始まりは「昭和十三年三月二十二日。曇。午前六時四十三分二條駅発」である。小さな文字で6頁にわたる文。ところどころ書き抜いて紹介すると、

 妻同行。福知山から北丹鉄道で河守駅着、バスで二俣の信用組合へ、河守上村製紙工業組合長の佐古田正作氏に話を聞く。

 現在河守上村で紙を漉いている家、二俣に十四戸、内宮に四戸、北原に三十三戸ある。

 宮津藩時代、紙を以って租税に代えていた。盛時には八十数戸の製紙家、現在の状態。その後、二俣の田中辰蔵氏方へ仕事を見に行く。多くは副業だが、この家では年中漉いている。

 村の共同作業場の機械や習慣の飾りのこと。

 河守を一時十四分に経ち、福知山、綾部、三時二分梅迫駅着。いろいろあったが黒谷着。黒谷は、小高い山と清流の美しい景色の村。川には石で抑えて晒してある楮の束が、ところどころに見かけられた。

 順調に成長するなら、出雲の安部栄四郎君のようになれそうな水口勇と云う青年に出あう。この人は色紙・短冊・封筒・巻紙・便箋などをこの土地で始めて工夫した亡兄義一君の遺志を継ぎ、黒谷の和紙に新生面を開こうとする熱心家である。その漉屋には大小さまざまの簀があり、草木染の設備も見うけられた。

 水口君が作った紙五種は、昭和十二年六月皇太后殿下行啓の砌、台覧の栄に浴し、うち色紙と短冊は御買上の光栄を得た。その記念にと、同じ品々を桐箱に納めたのが組合の床の間に置いてあった。その箱書をさせられた。

 組合に色々な紙の見本やら文献やらが準備してあり、それに依りながら黒谷の紙漉きの歴史が書かれている。幕末の京風漉方の伝授、明治の販路を大阪に求めた紙の考案、明治28年土佐紙業組合からの技師招来、郡是製絲会社が出来てからのこと等々。翌日は丹後世屋村の畑へ訪ねる紀行へと続くが、紙面の都合で割愛する。

 これで寿岳夫妻と黒谷の因縁始まりはわかったが、因縁多き−と言える内容はと、ていねいに『和紙研究』を調べたが、その第3号の広告に、丹波紙 書簡箋 封筒等各種 と大きく書き、次に小さく 本紙の表紙 本文用紙は当方で漉いて居ります。として、住所と水口勇の名が印刷されているのを見つけただけであった。

 『工芸』に黒谷の紙を用いた一時期がある。世話をしたのは私だが…と寿岳さんの「世話」の文字をはっきりと読んだのは昭和52年発行の『わが日わが歩み』の中の「丹波恋しや」の文中であった。