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第14回FMラジオ歴史ウオーク「足利氏と安国寺」「黒谷の和紙」
「景徳山安国寺について」(2)
綾部史談会会長  山崎巖
左から上杉清子、足利尊氏、赤橋登子の墓碑塔

左から上杉清子、足利尊氏、赤橋登子の墓碑塔

丹波安国寺の設立

 正中の変(1324)、元弘の変(1333)を経て、後醍醐天皇の討幕運動は一時成功し、鎌倉幕府は滅び建武の新政となったが、僅か2年で崩壊した。古代的な天皇政治の復活は到底新しく勃興してきた新興武士階級から支持される政権ではありえなかった。その後、後醍醐天皇は吉野で南朝を開き、尊氏は京都で光明天皇を即位させ北朝を樹立。以後1392年(北朝・明徳3年、南朝元中9年)に南北朝が統一されるまで60年間南北朝の動乱が続き、日本史のなかでも天皇が2人、年号が2つという最も複雑な時代である。

 尊氏は暦応元年(1338)北朝より征夷大将軍に任命され室町幕府を開くことになるのであるが、尊氏が終生帰依した夢窓疎石(天竜寺開山)の奨めにより、元弘以来の敵味方の戦死者の霊をとむらい、天下が安らかならんことを祈願し、全国2島66カ国に1寺1塔を設け、暦応元年(1338)から貞和年代(1345〜1350)頃までの10数年間に全国に設置された。康永4年(1345)2月6日、北朝の光厳上皇の院宣によりこれらに安国寺・利生塔という名称が勅許された。このような安国寺は新築されたものでなく、各国守護の菩提寺やその関係深い禅院が指定され、その後改築されたものも多い。また、利生塔は衆生を救うため、その建立に際して光厳上皇の許可を受け、東寺の仏舎利二粒を頒布し、各地の利生塔に祀ったものである。これ以後光福寺は丹波安国寺として全国安国寺筆頭の寺となった。以後、上杉氏に関することは光福寺の名称が用いられるが、公的なことは安国寺と称せられた。

 このように、安国寺・利生塔の全国的な設置は、四海の平和と元弘以来の戦死者の霊を慰撫するという信仰的動機で創建されたものではあるが、南北朝の対立、および新興武士団の勃興、幕府内部の紛争など、出来たばかりの弱体の室町幕府にとっては多くの難題を背負っていた。 

 安国寺・利生塔の全国設置は臨済宗の全国普及による統一という宗教政策と、この政策により幕府は全国の守護勢力を掌握することによって全国支配の確立をはかり、また、守護側としては幕府権力に接近し、その保護を受けて所領の拡大と強固な農民支配の領国化を進めながら、守護大名に成長していくことになるのである。このように丹波安国寺は筆頭寺院として足利氏や上杉氏の保護を受けながら繁栄し、盛時は寺領三千石といわれ、文書にも日向や越後、三河など全国的に寺領が拡大し、塔頭16・支院28を有し、寺域も広く地方禅院として大いに栄えた。

 やがて上杉氏が関東に本據が移り、安国寺との関係も漸次少なくなり、また、安国寺の制度の推進者であった夢窓疎石(1351)や尊氏(1358)も逝去し、それにかわって義満時代には新しく五山・十刹・諸山の制度が整っていくと、筆頭である丹波安国寺は諸山(1371)や十刹(1414)(安国寺文書)の寺格になり、五山十刹の制度に組み込まれて衰微していくことになるのである。しかし、寛正2年(1461)応仁の乱少し前には、丹波守護代内藤元貞が丹波6郡の奉行に安国寺再建のため家別拾文宛の奉加を命じているように、守護大名からもこのような保護を受けている。

 その後、応仁の乱後に幕府権力の衰退で政治は乱れてくると、寺領は急に動乱期に成長してきた在地の地侍(国人)層によって侵略され、現地において半済や下地中分・守護請・地頭請などの権限を利用し、さらにそれを悪用して荘園の不当な押領が繰り返された。安国寺文書の大部分はこれらの所領安堵状、国人などの寺領押領の停止を命ずる御教書等が多い。これらの必死の努力も地方の荘園押領を防止することは出来ず、安国寺の場合、支配の行き届かない遠方より手離している。比較的長く所有されているのは八田郷上村貞行名の地元の寺領や、夜久野今西村、氷上の春日部庄中山村等の近郷所在のものであるが、応仁の乱以後においては益々寺領の押領は激しくなり、寺は衰微していった。

 安国寺の開祖は、尊氏が康永元年(1342)12月京都南禅寺の天菴妙受を依頼し、丹波安国寺の開山始祖として招請している。後嵯峨天皇の皇子高峯顕日(仏国国師)の弟子であり、夢窓疎石と同門で中国へも留学した当時の高僧を開山として招いたことは、尊氏の安国寺に対する配慮がうかがえる。妙受は3年後、綾部で79歳で遷化するが、死後朝廷より仏性禅師の称号を賜り、現在その遺骨は安国寺境内の開山堂(正■=こう=庵)に祀られている。また、天菴妙受の死の直前の自筆遺偈や頂相画(肖像画)、天菴妙受入寺山門疏なども残されている。

 注 ■は庚の下に貝 の文字です。