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第14回FMラジオ歴史ウオーク「足利氏と安国寺」「黒谷の和紙」
「景徳山安国寺について」(1)
綾部史談会会長  山崎巖
足利尊氏立像

足利尊氏立像

はじめに

 平成1410月に第12回FMウオークが綾部で開催され、その節綾部市街地近辺の歴史的な由緒地20カ所を選んで案内させて頂きました。また、今年は再び綾部の安国寺から和紙の里黒谷へのウオークを計画され、秋の1日を楽しんで頂くことになり、地元からも多くの参加があることと思います。紙数の許す範囲で安国寺についてその概説を記し、また当日は現地でご案内させて頂く予定にしています。

 平成3年、NHK大河ドラマ「太平記」が放映され、激動の南北朝の動乱を背景に、太平記の世界が全国的な人気を博した。その中心人物である足利尊氏と、その母上杉清子の出身が綾部の上杉庄であり、上杉氏の菩提寺の光福寺(安国寺)へは、連日団体バスの見学者があり、特設の駐車場が設けられたり、みやげに地元の人々が「尊氏まんじゅう」を売り出されるほど賑わった。また当時尊氏に関係深い自治体・団体や寺社などが、綾部などの呼びかけで全国的な組織として「足利氏ゆかりの会」が結成され、足利氏を顕彰し情報交換・資料発掘や研究等を推進することになった。本年10月には「足利氏ゆかりの会」の平成16年度総会を綾部で開催、全国から関係者が集まり討議される予定である。平成15年4月には、京都自動車道に「綾部安国寺」の名称が決められた機会に、地元安国寺自治会や綾部市観光協会等が中心となり、綾部市の協力を得て市民の善意の募金を行い、安国寺町国道27号線わきに衣冠束帯の公家姿の尊氏立像が建立された。戦前逆臣とされた尊氏は、戦後は武家政権の確立の中心人物として歴史的に高い評価を受け見直されている。綾部においても戦後安国寺文書等の読解もすすみ、安国寺の歴史、尊氏や母清子などの研究がすすめられている。

安国寺と上杉氏

 源氏の嫡流頼朝によって開かれた鎌倉幕府は僅か3代20余年で源家が絶断し、そのあと藤原氏の九条家から頼経が4代将軍となり、その子頼嗣と摂家将軍が2代続いたあと、建長4年(1252)後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が鎌倉へ下り、6代将軍に就任した。その際、京都で藤原氏から分かれた公家勧修寺重房が、その介添えとして供奉し宗尊親王と共に鎌倉へ下向した。重房は何鹿郡上杉庄を賜り、その地名をとって上杉氏を称し、その菩提寺が光福寺であった。その後、宗尊親王が謀反の疑いで京都へ帰され、その子で3歳の惟康親王が7代皇族将軍を継ぐのであるが、重房は京都に還らず鎌倉にとどまり武士となり、室町時代には足利氏の執事から関東管領となり栄えた。のち、上杉氏は山内上杉や扇谷上杉など4家に分裂するが、山内上杉家はその支配地の越後の長尾景虎に鎌倉鶴岡八幡宮の神前において管領職と上杉の名跡を譲り、景虎は上杉謙信と改め歴史に活躍する。その後、江戸時代には米沢藩上杉氏となり、明治維新(伯爵)まで続いた。

 鎌倉幕府はやがて北条執権政治となり、北条得宗専政のなかで足利氏は新田氏と並び唯一の源氏系の御家人であり、幕府に生き残るためには北条氏との関係をはかり、並々ならぬ辛苦があったが、有力な御家人となって存続した。先代の遺言や尊氏の祖父家時の自害など考えると、天下をとる野望は足利氏の家風にあったであろう。

 上杉重房の妹は頼氏(尊氏の曾祖父)の妻となり、重房の孫娘の上杉清子は足利貞氏に嫁して尊氏、弟直義を産み、上杉氏と足利氏との姻戚関係が深まっている。

 上杉氏と光福寺の関係は安国寺文書の上杉清子の消息文のなかに「むまれ(生まれ)そだちたる所にて候ほどに うち(氏)寺にしたく候」とあることは、上杉氏と光福寺との関係をはっきり示している。また、寺伝では清子は尊氏が生まれる時、故郷上杉に帰り、菩提寺光福寺の山門近くの別邸で、光福寺の本尊である地蔵菩薩に祈願して尊氏を産んだといわれている。10万体地蔵尊をつくったと言われるように尊氏の地蔵信仰は有名であるが、このような母清子の地蔵信仰が幼い頃から尊氏に育まれていたのであろう。この別邸は後に安国寺に寄進され、常光寺という境外塔頭となり大正初期に廃寺となったが、現在は自治会の公会堂として使用されている。そのすぐ傍らに尊氏生誕の伝説を生んでいる初湯の井戸が残っている。尊氏の誕生地については大河ドラマの放送の時にも問題になった。鎌倉説、足利説、綾部説と3つの説があるが、私は単に伝承だけでなく、安国寺文書など検討するなかで、綾部生誕説を支持したいと思っている。